アルジャーノンに花束を

先日、「アルジャーノンに花束を」を読了した。
前から良書であることは知っていたが、沖縄旅行の移動中に読もうと思って、電子書籍で購入した。

内容は今さら語るまでもないかもしれないが、ざっくりと言うと「知能を向上させる臨床実験の被験者として選ばれた知的障害を持つ青年(奇しくも僕と同じ年齢であった)が、IQが飛躍的に向上する前と後の経過を、本人の報告日誌を読む形で追体験していく」というものだった。

ちなみにアルジャーノンというのは主人公の名前ではなく、主人公(チャーリイ)に先んじて臨床実験を受けたネズミの名前である。

IQが急激に向上したために精神が追いつかず、そのギャップに悩まされる過程が鮮やかに、かつ残酷に描かれており、まるで自分のことのように孤独感や苦悩が押し寄せてきて、色々と心が抉られる思いだった。
だが読了後は「ああチャーリイ、君は救われたんだね」というおかしな感情が湧き上がり、心にぽっかりと穴が空いたような、それでいて満たされたような奇妙な気持ちになった。

内容についてはこれから読む方もいると思うので言及は避けるが、誰しも多かれ少なかれチャーリイの部分を持ち合わせていると思っていて、それを鮮明に描いたダニエル・キイス氏の手腕には終始驚かされてばかりだった。

特に知能が高まるにつれて今まで見えていなかった具合の悪いことや不都合な真実が見えてきて、段々と生きづらさを感じていく過程はなかなかにくるものがあった。
と同時に、蓄積されていく経験が増えれば増えるほど物事の判断の精度は上がっていくが、結果がある程度予測されてしまうことによって、それそのものが判断を鈍らせる原因となったり、挑戦をやめてしまったり、本来は色鮮やかなはずの体験が色褪せてしまったりと、悪影響を及ぼすファクターになるのではないかとも思った。
(似たような話として、失敗することを恐れるあまり何もできなくなるという旨の話を「失敗するチャンス」でも書いたのでよかったら読んでいただきたい。)

これは最近自分自身でもぼんやりと「経験という名の悪意が人生から彩りを奪っているのではないか」と考えていたところだったので、見つめ直すいい機会になった。
もちろん、経験はその人一人ひとりにとってかけがえのない知的財産であるため、最大限大切にしていきたいとは思うが、経験によって「やらない」判断を下すことを意図的に遠ざけ、もう少し自分の感情に寄り添って正直に生きていこうと思った。

また、本人が認知できない部分で周囲の人間からレッテルを貼られ、蔑まれていた事実に後々チャーリイが気づくという描写があるのだが、これもやはり生きる上で僕たちは無意識にやっていることなんじゃないかと思った。

「あの人はこういう風だから多分こうだろう」「いつもこうだから今回もこうだ」というようなラベリングを行っているということが往々にしてあると思う。
僕は、人間は他者と比較して初めて自分の地位を確かなものにする性質があると思っているので、それ自体が全く悪いことであるとは思わない。
思わないが、最悪なのがその判断のほとんどを無意識下でやっているということだ。
当人との対話が不十分なままで、パーソナリティを理解しないままで決めつける(あるいは対話を十分に行ったという認識そのものがラベリングである可能性も否めないが)ことはとてももったいないことのように思う。

上記は本を読むことで見える世界が変わっていくことを表した(おそらくネット上では)有名な画像だが、「アルジャーノンに花束を」を読んでいる最中、ずっとこの絵が頭の片隅にあった。
色々と考えさせられることが多い一冊であったが、今までの自身の行動を振り返ってこれからの振る舞いに大いに影響を与えてくれる予感がしているので、今のとりとめのない気持ちを記しておこうと思った次第だ。

最後に印象に残ったチャーリイの言葉を引用して終わろうと思う。

知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。
しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです。