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旅と物語

僕は旅が好きだ。 まだ見たことのない風景を見て、その土地の風を肌で感じることが大好きだ。 食べたことのない珍しい食べ物を食べるのが大好きだ。 でも、と思う。 旅の一体何がそこまで僕の心を揺り動かすのだろう。 旅に一体何があるのだろう。 訪れるまではそこは写真でしか見たことのない場所で、知識として知っているだけにすぎない。 あくまでもそれはただの輪郭であって、血の通った何かではないのだ。 僕が思うに、それに血を通わすものは物語だと思う。 それは何でもいい。 例えば家族と昔行ったことがある場所だったり、テレビでいつか見たところだったり、恋人がそこの生まれだったり。友人と一緒に行ったこと、お土産屋のおばあちゃんの温かい笑顔、居酒屋の店員さんと楽しく話したこと、おいしいごはんを食べたこと。 そういった小さな物語が旅に彩りを、温かみを、匂いを、風を、命を吹き込んでくれる。 自分の中で物語が生まれたとき初めて、その場所は地図の中を飛び出して命の通ったものとなる。 旅の中で生まれる物語、それこそが僕が旅を好きでい続ける理由なのかもしれない。 物語というのはとても大切で、特別で、かけがえのないもので、いつか自分の前に壁が立ちふさがったときに乗り越えるための力となるだろう。 だから、僕は今日も旅をする。

アルジャーノンに花束を

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先日、「アルジャーノンに花束を」を読了した。 前から良書であることは知っていたが、沖縄旅行の移動中に読もうと思って、電子書籍で購入した。 内容は今さら語るまでもないかもしれないが、ざっくりと言うと「知能を向上させる臨床実験の被験者として選ばれた知的障害を持つ青年(奇しくも僕と同じ年齢であった)が、IQが飛躍的に向上する前と後の経過を、本人の報告日誌を読む形で追体験していく」というものだった。 ちなみにアルジャーノンというのは主人公の名前ではなく、主人公(チャーリイ)に先んじて臨床実験を受けたネズミの名前である。 IQが急激に向上したために精神が追いつかず、そのギャップに悩まされる過程が鮮やかに、かつ残酷に描かれており、まるで自分のことのように孤独感や苦悩が押し寄せてきて、色々と心が抉られる思いだった。 だが読了後は「ああチャーリイ、君は救われたんだね」というおかしな感情が湧き上がり、心にぽっかりと穴が空いたような、それでいて満たされたような奇妙な気持ちになった。 内容についてはこれから読む方もいると思うので言及は避けるが、誰しも多かれ少なかれチャーリイの部分を持ち合わせていると思っていて、それを鮮明に描いたダニエル・キイス氏の手腕には終始驚かされてばかりだった。 特に知能が高まるにつれて今まで見えていなかった具合の悪いことや不都合な真実が見えてきて、段々と生きづらさを感じていく過程はなかなかにくるものがあった。 と同時に、蓄積されていく経験が増えれば増えるほど物事の判断の精度は上がっていくが、結果がある程度予測されてしまうことによって、それそのものが判断を鈍らせる原因となったり、挑戦をやめてしまったり、本来は色鮮やかなはずの体験が色褪せてしまったりと、悪影響を及ぼすファクターになるのではないかとも思った。 (似たような話として、失敗することを恐れるあまり何もできなくなるという旨の話を「 失敗するチャンス 」でも書いたのでよかったら読んでいただきたい。) これは最近自分自身でもぼんやりと「経験という名の悪意が人生から彩りを奪っているのではないか」と考えていたところだったので、見つめ直すいい機会になった。 もちろん、経験はその人一人ひとりにとってかけがえのない知的財産であるため、最大限大切にしていきたいとは思うが、経験によって「やらない」判断を下すことを意図的に遠ざけ、

すきなたべものについてのはなし

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  僕はおいしいものを食べることが大好きだ。 そもそもおいしいものを食べることが嫌いな人類はいないのではないだろうか。 最近はGoogle Mapsのピン機能を使って、「行きたい」「行った」「殿堂入り」のようにラベルごとにお気に入りの店舗を管理するようにしている。 その中でも、以前 馴染みが好きだという話 でも書いたとおり、昔からお世話になっているお店を再訪することもままある。 特に福岡に戻ってきたこともあり、大学時代によく訪れていた店舗に足を運ぶことが増えた。 久々に行ったお気に入りのお店で、昔自分が好きだったメニューをオーダーして、心を踊らせながら提供されるのを今か今かと待つわけだ。 待っている間、当時のことを思い出し、何とも言えない感慨深い気持ちを噛み締める。それは大抵の場合、悪友との他愛ない会話だったり、甘酸っぱい気持ちだったり、ほろ苦い思い出だったりする。悪くない時間だ。 いよいよ料理が運ばれ、あの頃と変わらない盛り付けが視覚を刺激し、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、僕のテンションは最高潮に達する。 約束された味を想像し、待ちきれず口に入れ、噛み締めた瞬間こう思うのだ。 「あれっ?」 確かに味はおいしい。懐かしい味がする。 だがこれはあのとき食べたあの味だろうか? あのときはもっと感動的な味だったのではないだろうか?と。 一店舗だけなら味が変わったのだと感じるだろう。 全ての店舗でそう感じるのであれば僕の味覚が変わったのだと得心もしよう。 だが、そうではないのだ。 昔のままおいしいと感じるお店もあるし、おいしいけど何が何でも再訪したいと思うほどではないなと感じるお店もある。 なんでだろう、と考えた。 確かに10年も経てば自分の味覚も変わって、おいしいと感じるものが移ろいゆくだろう。 思い出という名のスパイスが、味付けを何段階も上のものに昇格させているかもしれない。 お店のキャストが変わったり、店主の味覚が変わったりして残念ながら求める味ではなくなっていることもあるかもしれない。 未だにこの疑問に対しての答えは出ていないが、最近味が期待していたものと違ってしょんぼりする(お店のかたに対して大変失礼な物言いであることは承知しているが)ことが何回かあったので言語化してみた。 やはり自分が好きなお店、馴染みのお店には定期的に通うのがいいのかなと思った。

ニーバーの祈り

 ニーバーの祈り なるものを知った。 神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。 変えるべきものを変える勇気を、 そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。 一日一日を生き、 この時をつねに喜びをもって受け入れ、 困難は平穏への道として受け入れさせてください。 これまでの私の考え方を捨て、 イエス・キリストがされたように、 この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。 あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。 そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。 アーメン 基本的には僕は何でも自分の手の届く範囲にあるものが好きだ。特に車なんかは自分で操作している感がほしくてMTに乗っている。 が、世の中には自分の力でコントロールできるものとできないものの二種類があると思う。 大樹を動かそうと躍起になって力を込めても疲れるだけなので、これからは変えられないものと変えるべきものを区別することに心を砕き、変えられないものについては穏やかに受け入れて行きたいと思う。 この辺は他人を変えることはできないが、自分が変わることはできるのと同じような話だと思う。自分自身がどういう状況下でストレスを感じるのかを把握し、適切に対処できるようになりたいと思った。

ドキュメントについてつらつらと考えたこと

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はじめに エンジニアリングをする中で「時間を取って後でドキュメントを書こう」と思う瞬間がある。 これは自分もたまにやってしまうことで、特にゾーンに入っている場合だったり、ガッと実装してしまったほうが早い場合だったりに起きているように思う。 しかしながら当然、ドキュメントを書かないことによる弊害というのも存在することは明白で、短期的に見るとスピードが出るのは間違いないのだが、長期的(と言っても状況によっては1ヶ月、2ヶ月と全然遠くない未来だったりする)に見て様々な問題が発生する。 ドキュメントがないことに対する弊害 例えば新機能の開発について考えてみる。 ドキュメントを整備しないまま実装した場合、実装した瞬間から「動いているものが正しい」状態になってしまう。仮にリリース前に仕様変更があった場合、ドキュメントがないと動いているものから仕様を読み解き、修正する必要があるかもしれない。 例として契約プランと契約年数で割引率が変わるロジックに手を加える場合、マトリクス表を一個書いておけば仕様把握は一瞬ででき、「パターンBをB'に変えたいんです」といった話がスムーズに行えるだろう。 だがマトリクス表がない場合はどうだろうか?どういう条件で分岐しているかコードリーディングした上でまとめ、どこをどうするか検討する必要が出てくるかもしれない。 この場合のコストは実装時にドキュメントを書くよりも工数が発生するように思うのは僕だけだろうか。 例えば新メンバーが加入した場合について考えてみる。 ドキュメントがないままオンボーディングするとなると毎回アーキテクチャやデータベース、システム構成について図を使って説明する必要があるだろう。 既存の仕様についても同様で、コードリーディングするかテストコードから挙動を追う必要があるかもしれない。 この辺りのキャッチアップは非常に時間がかかるもので、サービスが成長すればするほど、ドキュメントがない場合の工数は指数関数的に増えていくと思っている。 あるいはドメイン知識が浅いままに既存機能の修正を行った場合、考慮漏れが検知できず思わぬエンバグにつながるおそれもある(それを回避するためにコードレビューがあるが、コードレビューも万能ではないので)。 例えば既存機能の修正について考えてみる。 言わずもがなだが、ここがドキュメントがない弊害が一番大きく出る

馴染みが好きだという話

今日は約1ヶ月ぶりに髪を切りに行った。 ありがたいことにもともと人よりも毛量が多いらしく、加えて伸びるスピードも早いほうだということでここ1年は意識的に早め早めにカットしに行くようにした。 以前は1ヶ月半〜2ヶ月半くらいに1回程度だったものを、大体1ヶ月に1回程度になるように調整した。 メリットとして、髪が乾きにくいと感じる前に量が減るのでストレスがなくなった、というものがある。 反面、カットのために予定を空けておく必要があり、それが若干ストレスになっているのを感じる。 もう少し頻度を空けてもいいような気がするので、その辺はいい感じに調整していきたい。 今行っている美容院は鳥栖にあるのだが、なぜ鳥栖まで毎月通っているかと言うと、中学生の頃から通っていた美容室の担当の方(以降、Kさんと呼ぶことにする)が異動になったためだ。 13歳以降、僕の髪は(一時期県外にいたこともありずっと、というわけではないが)18年間Kさんにカットしてもらっている。 人生の半分以上をKさんに切ってもらっていると考えるとなんとも面映ゆいようなこそばゆいような妙な感覚になるのだが、不思議と悪いものではない。 と同時に、ずっと担当してもらうことのメリットというものがあるように思う。 例えば以前県外にいたときに予約が取れずやむなく現地の美容師に切ってもらったことがあったのだが、事前に切らないでくださいと伝えていた部分を切ったり、切ってほしいところを切ってくれなかったりというやり取りの結果、自分史上最悪の散々な出来栄えになってしまったことがある。 (ちなみにこの次の回でKさんにカットしてもらったのだが、僕の髪を見て苦笑していた) Kさんならこちらから要望を言わずともよしなにやってくれるし、こちらのやってほしいこと・やってほしくないことが事前に共有できているのでコミュニケーションロスも少なく非常にストレスがない。 18年もやり取りを続けていればお互いにライフステージの変化などもあるわけで、そういった話を気軽にできるのも心地よいと思う。 これは賛否両論分かれる意見だとは思うが、僕は「馴染み」が好きで何度でも同じお店に通いたがる傾向があるように思う。 しかもどちらかと言うと「お店」などの物的なものではなく「人」に惹かれる習性があるようだ。 頑張っている人、魅力的な人、かっこいい人、面白い人…惹かれる要素は色々

失敗するチャンス

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  最近、失敗について考えることがある。 「失敗は成功の母」という言葉が表すように、人という生き物は往々にして失敗を恐れ、次はどうすれば失敗しないのかに腐心してきたのではなかろうか。 失敗を恐れないのはただの蛮勇だ。失敗から学び、どう活かせるかを考えるのが知恵だ。 自分も歳を重ねるごとに、いかに立ち回れば失敗を回避できるか、という思想が強くなっているように思う。 だが同時にこうも思う。それは失敗するチャンスを失っているのではないか、と。 例えるなら子どもが新しい何かを始めようとしたとき、親心から先に失敗しそうなところをかいつまんで説明したとする。 何も事前知識がない場合よりもはるかに成功の確率は上がるだろう。 だが、それは同時に自ら失敗する中で学ぶチャンスを奪っているようにも思える(当然、命に関わることや危険なことを排除することは前提として)。 魚そのものではなく魚の釣り方を教えることが肝要ではないだろうか。 教えるという言い方すらおこがましいのかもしれないが……。 自分の人生についてもそれは同様で、いわゆる「ビビって何も行動しない」状態に陥るのが一番損失が大きいことではないかと最近は考えるようになったため、自分から失敗するチャンスを作っていきたいと思う。